昭和50年05月19日 朝の御理解



 御理解 第21節
 「信心せよ。信心とは我が心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなしカンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火が灯らず火が灯らねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」

 神徳の中におっても氏子に信なければと、私共は神様の御恩恵言うならば、神様の御神徳の中に生きておるんです。先ずね其処の所が解らないと、信心の云わば有難さはいうものが解りません。本当の有難さ只痛いのが治ったと、自分の願いが成就したと云う様な、例えばおかげは勿論有難いですけど、そういう有難いはね月日が経つに従って薄らいで行くもんです。どんなに奇跡的なおかげ頂きましても、それこそ喉元通れば熱さを忘れるの理の通りに、まあそれが人間です。
 けれども御神徳の中におってもと申します、御神徳の中にあるという事実をね、私共が信心によって解らして貰う。もうその御神徳の中にある私達、その中に生かされておる私達、ですから自分の周囲、周辺の一切のものが感謝の対象になる訳です。ね。目が覚めた、おかげで今日もお生かしのおかげを頂いておった、とお礼が言えれる。もう寝床の中でも枕にも布団にも夜衣にも、お礼が言えれる。ね。顔を洗わして頂く、それこそあの冷たいお水で顔を洗う時に、しみじみお水の言うならば有難さを感じるね。
 もう何処に行っても何処におっても御恩恵の中に、それこそ神徳の中にあってもとこう。そういう神様の御神慮、御恩恵の中にあっても信がなければと仰る。それをねそうと信じなければおかげはないと言っておられます。先ず頂いとるものに対する御礼が必要だと云う事なんです。甘木の先代のお話の中に大変胃の悪い人がお参りさして頂いた。それからま耳は聞こえておるな手足も自由に動いて居るな、もう体の動いておる所のすべて一々こう云いながらね、手はどうもありません足はどうもありません。
 目は見えとります。なら耳も聞こえとります。して見るとそういう沢山なおかげを受けておる中の、たった胃が悪いと云う事だけがあんたの願いじゃなと。そうですと。そんならなそのおかげを受けておる事の方が先ず先にお礼ば申し上げにゃおかげは受けられんばい、と仰ったそうです。私共は一つ困った事があると、その中でその一つ困った事のあると言う事だけで、心が真っ暗うなってしまいます。所謂世界がもう闇になっしまうのです。一寸何かがあるともう心が暗ぁくなってしまう。
 言うならば本当の芯がないからです。カンテラの中に油がいっぱいあってもと云う事は。例えばその御体一つの事でも、胃なら胃が悪いと云うその事だけで、心が暗うなってしまう。カンテラに油が一杯あってもと、おかげを頂いとる事は一杯あるのだけれどもです、氏子に芯なければと仰る。火が灯らん火が灯ると云う事はおかげを受けると云う事でしょう。芯なけれはおかげは灯らず。
 成程胃が悪い、御飯も頂かれんその時は痛む、まあそういう症状があると致しますか、とそれだけで心が暗くなると云う事が、すでに芯がない証拠なんです。心が闇になる。さあ心が闇になるから、さあ先の方が不安で不安で堪らん。どうなるだろうかと云う不安が。真っ暗い道を歩いておる。光が煌々と照り輝いておる道を歩いておる。信心のある者とない者はこの位に違わなければ嘘なんです。ですから先に不安がない。真っ暗中を歩いていると、何時怖いものが飛びだして来るやら解らんと思から怖いのです。
 所が心に光が灯っとればです、煌々とした光がそれこそ昼の様な光がそこにあれば、怖い事も何んもない。また道を間違える事もないのです。その様に芯というものは大変なものです。氏子に信なければおかげはなし。信がなければ、信心なければ夜は闇なり。信心なければ世界は闇なり。そういう不安焦燥の人間がですね、この地球上に沢山あるのです。それこそ世界は闇だであります。
 そういう例えばね、それこそ暗夜行路ではないですけれども、光もなしに私共が辿らして頂く道と云う物は、非常に不安焦燥の道である訳ですから、信心によって光を受ける。信心によって心に光が灯る。そういう光が愈々大きくなる。一人がおかげを頂くと千人も万人もげ頂く様になる仰るのは、一人の心の中に大きな光が灯るから、その光が段々大きくなって行くから、その光の元に言うなら小さい、新聞の字でも読める様な、潤うおかげになって来るのです。
 今此処に千人の信者がおると致しますなら、私の心の中に千人の人が明るい光に潤う事の出来れる。光を私しが頂いとるから。千人の人が潤うのです。ですからお道の信者、信奉者がですね、全て言うならばそう云う信を受ける。信なければ世界は闇と仰る。と云う事は今日の御理解を頂くと、おかげをおかげと感じとれと云う事なんです。成程胃は悪いけれども他の所は健康である。心臓も肝臓も腸も皆んな元気である。只胃だけが悪い。目も見えておる耳も聞こえておる。
 手も足も自由に動いておるね。そこの所のです、例えばお礼を申し上げて行かなければならん。惟も甘木の先生のお話の中に、今日運動会だというので、お母さんは日雇取りに行きよんなさった。けど今日だけはその日雇取りの仕事を休んで子供の為にね、なけなしの金を使って、竹輪も買うて蒲鉾も買うて、で日頃はまぁ今頃は竹輪蒲鉾どこはそう大した事はないけれども、何十年前は竹輪蒲鉾というのは、お御馳走の部類に入っておった。ですからまぁ今日は玉子焼きの一つ作ってやろうかというてです。
 そんならその玉子焼きを作った竹輪蒲鉾、日頃は食べない様な物を子供が喜ぶ様にと思うて、お弁当を作って運動会に行ったというんです。まあ愈々昼食の時間になって子供が、母ちゃんお弁当お腹がすいたと、言うてしてやって来た、それから作って来た、今日は竹輪も蒲鉾も買うて来たよと言うて広げて見せた。所がねその子供がそのお母さんが作って来とるお弁当は見らずにね、隣にはお肉もあるよ、こっちは魚も持って来ちゃるよ。あっちにはあげなお御馳走を持って来てあるよと云うてです。
 例えばそう云う風に子供が言うならばです、それこそ親はがっかりするだろうと言うのです。なけなしの云うなら金で竹輪も買うた、蒲鉾も買うた。それは息子も喜ぶじゃろうと思うて、お弁当開かして貰うたら、わぁ竹輪がある、やぁ蒲鉾があると喜ぶだろうと思うとった。所がそれは見らんで、隣には肉を持って来ちゃるばい。あっちは魚食べ御座る。もうそれこそ親の心は、もうめちゃくちゃねと悲しむであろう様にです。
 例えばならあんた方がね、神様があんたに下さっておる一つのおかげと云う物は、もう親としては最高の者をあげてあるとじゃ。その人の徳分なら徳分に応じて、つう一杯の神様はおかげを下さってあるのに、もう本当に私の様な不幸な者があるじゃろうか。あそこにはあげな立派な家が建つとる。あの人はあげな立派な着物ば着て御座る。ああ私のごたる不幸な者があるじゃろうかというたら、親の気持ちはどうあるかというて、諭されたと云う事で御座います。ね。
 本当に自分が頂いておるものに先ずね、感謝をせねばいかん。有難い心を使わにゃいけん。その有難いものを頂かせて貰うと云う事。その有難いと云う心が次のおかげを呼ぶのです。言うなら胃が悪いなら胃が悪いというておる、その胃も癒えるでしょう。様々な難儀があるなら、その難儀が解消するでしょう。この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰るのですからね。
 私共が喜ばせて貰おうと思うたら、自分の周辺には喜ばねばおられない、お礼を申し上げねばおられない物で一杯。それこそカンテラに油が一杯ある様な物であります。いくらカンテラの中に油が一杯あっても氏子に信なければ世界は闇であり。心は闇である。その信と云う物がです、今日皆さんに聞いて頂いた所、甘木の先生の言われる通りに、あれもおかげを受取る、是も頂いとるたいと気付かせて頂いて、先ずはお礼を申し上げる事を先にする所に心がほのぼのと明るくなる。心に光が灯るのです。
 然もその光がです五燭光位な光から十燭光、百燭光の光が灯る様な、段々おかげを頂いて行くと云う所に、愈々世界が光輝く。天地の親神様の御恩徳、天地の親神様のお恵みの中にある世界がハッキリと浮かび出て来る訳です。そこに明るい世の中と云う物が感じられる訳で御座いますがね。信心をさせて頂く者が先ずはそういう、一つの世の中のね言うならば光にもなろう。
 と言う様な心を起こさなければおかげは頂かれません、世の中の光になろう、そういう精進が大事じゃないでしょうか。そこに言うならば明るい所にですね、おりますと言うならばホコリがしてればホコリがすぐ解る。散らかっておればその散らかっとる事がすぐ解る。真っ暗ーい中におるから心の中がどんなに汚れておっても散らかっておってもその汚れておる事にすら気が付かない。
 光が灯りますと、あああっちがあげん汚れとる。こっちがこの様に曲っとると云った様な風に、はっきり解って来る。だからお掃除の一つもさして貰う様になって来る。いうなら自分の心の中のお掃除が出来る。いうならば改まる事も出来る訳であります。ね。先ずは言うならば心に光を、是が信心の私くしはまず願いでなからねばならん。まずは心に光を、そして世の中の光ともなろうと云う様な信心の願い、そういう熱情を持っての信心でなからなければいけないと思いますね。
   どうぞ。